かわら版
「アホの妻のチャンピオンベルト~特別編」
///////////////////////////////////////
あらためまして、
いつもラーメンみのりのメルマガをご覧下さり、
本当に、ありがとうございます。
私をはじめ、スタッフ一同、
みなさまからのご感想を、
とても楽しみに、毎回、
拝見させていただいております。
沢山の励ましや勇気を頂き、
心から感謝申し上げます。

今回は、いつもと趣向を変えて、
私から見た石崎(大将)との出逢い、
そして、「みのり」がオープンする
物語をご紹介させて頂きます。
私が大将と出会ったのは、
1994年1月3日。
新札幌のホテルのロビーが初めての場所でした。
あれから16年が経ちましたが、
結婚生活を振り返ってみると、
大将には、ずっと、
一つだけ大きな不満があります。
でも、すごく優しい人なんです。
そして、最近になって、
私の気持ちが少し変化してきました。
さて、私たちの出逢いは、
実は、お見合いでした。
手配師のおばさんから大将の写真を見せてもらい、
神妙な表情でこちらを見つめる緊張した姿から、
最初、私は素朴で頼りがいがある人なんだろうと、
勝手に想像していました。
誰か、一緒にいられる人を
ずっと探していたのです。
当時、私の年齢は、
30代で、毛皮の販売をする会社で
事務の仕事をしていました。
けれども、
仕事にも生活自体にも満足できない日々。
「結婚をして、まったく違う世界に行きたい」
毎日、そんな事を考えていました。
会社では、
年上の同僚から、
プライベートな事をネチネチと
聞かれたりする事に、
少し疲れていました。
そんな、私でしたが、
将来には夢がありました。
「小さくても持ち家に住めて、
生活が安定していて、
親を大事にしてくれる人と
結婚をしたい」
そんな私に、
手配師のおばさんはこういいました。
「アワビの養殖の仕事をしていて、
しっかりした人だよ」
それを聞いた私は、
無邪気に考えていました。
「これで、きっと夢が叶うんだ」
私にとっての白馬の騎士が、
大将だったのです。
そして、私達はホテルのロビーでご対面。
「想像より老けているなあ。
見た目もパッとしないし…」
それが、第一印象でした。
「でも、お付き合いしながら好きになればいい」
そんな風に、自分を励ましたりしていました。
「何とかなりそうかな、どうだろう?」
そう思っていた私の背中を、
両親は「立派な人だね」と後押してくれました。
それから、約3ヶ月でスピード入籍。
一緒に暮らし始めた最初のうちは、
お庭のある大きなお家に住むことが出来、
将来の期待も膨らんでいました。
「これから人生が良くなっていくはず…」
ところが、しばらくすると、
アワビの会社の業績が悪くなってきたことから、
生活の雲行きが怪しくなってきたのです。
収入もガタンと減ったので、
私たちは団地に引越し、
セカセカとした暮らしをすることになりました。
「私は、この人しかいないんだから、
頑張ってついていかなきゃ」
そう、思いながらも、
何だかとても辛くて、
ストレスで体調を崩したりしていていました。
そうこうしているうちに、
アワビの会社が倒産。
私たちは、カニの卸をやるか、
知り合いのつてでラーメン店をやるか、
どちらかを選択することになりました。
その時には、生活のためには私も働かなきゃいけないと、
私も覚悟を決めていました。
結局、カニの仕事は安定していないので、
知り合いがやっているラーメン店に
私たちは修行に入ることにしました。
当別にあったその店の社長さんは、
顔も身体もゴリラみたいに迫力がある、
本当に怖い人でした。
気に入らないことがあると、
しょっちゅう、
中華鍋や、
熱湯のついたさいばしで、
従業員を叩いたり、
お客さんの前で、
口汚く怒鳴ることもありました。
とくに、社長は、
なぜか大将のことが気に入らないらしく、
感情を爆発されることが沢山ありました。
「ブタは邪魔なんだよ!」
私から見た大将は、
社長よりも仕事が出来て、
従業員からも慕われていました。
それが、きっと
気に入らなかったんだと思います。
あと、理由もないのに、
お客さまに土下座させられたこともありました。
あの光景は、
一生忘れられません。
大将の背中を見ながら、
私は、恐くて、
何も出来ませんでした。
悲しくて、悲しくて、
泣きながらまかないのラーメンを
すすったのを覚えています。
あれは、テールスープを試食した日でした。
私は、その社長が憎たらしくて、
嫌でしょうがありませんでした。
それでも、大将は、
どんなに嫌なことがあっても、
自分より弱い人に当り散らすようなことはありませんでした。
私には、とても出来ません。
すごい人なんだなと思いました。
ところが、
そんな事があっても耐えていた私たちに、
ある日、いい報せがありました。
千歳に店を出して、
ゆくゆくは任せてくれる
というのです。
私たちは涙を流して喜びました。
「自分たちの店が持てる」
それからは、365日、
身体がバラバラになるくらい、
毎日、仕事を頑張りました。
そうこうするうちに、
千歳に出したその店は、
本店を上回るほどの繁盛店になりました。
私達は、どんなに身体が疲れても、
自分達の店に夢を膨らませていました。
そんなある日、
とんでもない出来事が起こりました。
社長が、私たちを
突然、店から追い出してしまったのです。
その日、いつも通りに
午前8時に出勤した私たちでしたが、
社長が先に店にいて、
いきなり怒鳴りつけてきたのです。
「遅刻しやがってけしからん!
出て行け!破門だ!」
そういって、
社長が二の腕をまくりあげると、
びっしりと刺青が入っていて、
私たちは言葉を失ってしまいました。
完全ないいがかりでした。
しかし、どうすることもできす、
来た道を2人でトボトボ引き返してきたのです。
突然の事で、
本当にびっくりしましたが、
冷静になってみると、
あれだけ大将にひどい事をした人ですから、
縁が切れてかえってせいせいしました。
「あんな奴の顔を2度と見ないですむわ!」
それなのに、大将は、
あまり怒った様子もなく、
お気楽な様子。
「お世話にも沢山なったじゃないか」
社長の予想では、
千歳の店が本店を上回るほど
繁盛をするなんて、
ぜんぜん考えていなかったようです。
こうして、私達は、またもや
突然、路頭に迷ってしまいました。
その時には、もう、どうやって、
生活していこうか考えるのが精一杯で、
夢どころの騒ぎではありませんでした。
そして、どうするか考えていたのですが、
心の中では大将も、私も、こう考えていました。
「もう、私達には、
ラーメンしかない」
でも、どうしたら自分たちで
お店をオープンできるんだろう…。
そうすると、
ありがたいことに、
お店の常連さんや、
友人、仕入先さんなどの色んな方が
応援して下さることになり、
自分たちの店をオープンできることになったのです。
そして、1995年1月24日、
千歳市自由が丘という場所で
私たちは店を始めさせて頂きました。
店名は、「道裕」(みちひろ)の「道」と、
「紀子」(のりこ)の「のり」を合わせて
「道のり」(みのり)と名づけさせて頂きました。
「みちのり」ではなく「みのり」と読みます。
「まだまだ、美味しいラーメンを
つくれない私たちだけど、
一歩ずつ一歩ずつ進んでいこう」
そんな事を話しながら店名を決めました。
そして、本当に休み無く、
スープの仕込みから営業、
翌日の準備と後片付けで、
朝の5時から夜の12時まで
365日働きました。
お店は、自衛隊さんや、
地域の方々にご愛顧頂き、
おかげさまで、
にぎやかな毎日。
そして、7年後の2002年、
7月22日、自由が丘から、
現在の36号線沿いに移転したときに、
「道のり」を「みのり」と、
変更させていただいたのです。
振り返ってみると、
色んな事がありましたが、
中でも、大将には腰のヘルニアがあって、
ずっと辛かったと思います。
厨房にダンボールを敷いて
ショックを和らげたり、
靴のつま先を切り落とすような工夫をして
頑張っていました。
横で見ていて心配になりましたが、
泣き言は、殆ど聞いた事がありません。
あと、これまで、
大将がしてくれたことで、
一番嬉しかったのは、
私が乳がんになった時に、
一生懸命はげましてくれたことです。
「やばいかな…」
そう、考えつつも実際に乳がんの診断を受けたとき、
私は、本当に怖くて、不安で一杯でした。
当時は、今のように、
再発も無く完治する人は、
まだ、少なかったのです。
病院の廊下に張ってある
誘導テープの上をフラフラと、
真っ直ぐ歩けないくらい意識が
もうろうとしたのを覚えています。
「せっかく私を選んでくれたのに、
全摘になってごめんね」
大将には、そんな手紙を書いたのを
覚えています。
そして、明日、手術というその日の夜。
小さな川に面していた私の病室に
パッと光が入ってきてパパパンと音が鳴りました。
窓に近づいて見ると、
大将が向こう岸で花火を
次から次にあげているのです。
私は、思わず窓を開けました。
「絶対に大丈夫だよ。
心配ないよ。
俺がついているから!」
大将が涙ながらに声を張り上げていました。
あの時には、本当に勇気が出て嬉しかったです。
あと、一つだけある不満については、
どうしても言いたいのですが、
長くなってしまうので、
それは、また、
いつかご紹介したいと思います。
みなさんもご存知のように、
大将は、年だけはとっていても、
子供みたいな人ですので、
ご迷惑をおかけすることもあると思いますが、
どうぞ、ご容赦下さいませ。
あと、何かお気づきになられた時には、
色々とご指導下さいませ。
ご来店下さった時には、
元気なるラーメンを精一杯
お作りさせていただきます。
石崎紀子
愛笑コメント
///////////////
今回、妻の気持ちで
初めて分ったことがたくさんあって、
びっくりしました。
次回は、また、私の物語を中心に、
お届けさせて頂きます。
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あらためまして、
いつもラーメンみのりのメルマガをご覧下さり、
本当に、ありがとうございます。
私をはじめ、スタッフ一同、
みなさまからのご感想を、
とても楽しみに、毎回、
拝見させていただいております。
沢山の励ましや勇気を頂き、
心から感謝申し上げます。

今回は、いつもと趣向を変えて、
私から見た石崎(大将)との出逢い、
そして、「みのり」がオープンする
物語をご紹介させて頂きます。
私が大将と出会ったのは、
1994年1月3日。
新札幌のホテルのロビーが初めての場所でした。
あれから16年が経ちましたが、
結婚生活を振り返ってみると、
大将には、ずっと、
一つだけ大きな不満があります。
でも、すごく優しい人なんです。
そして、最近になって、
私の気持ちが少し変化してきました。
さて、私たちの出逢いは、
実は、お見合いでした。
手配師のおばさんから大将の写真を見せてもらい、
神妙な表情でこちらを見つめる緊張した姿から、
最初、私は素朴で頼りがいがある人なんだろうと、
勝手に想像していました。
誰か、一緒にいられる人を
ずっと探していたのです。
当時、私の年齢は、
30代で、毛皮の販売をする会社で
事務の仕事をしていました。
けれども、
仕事にも生活自体にも満足できない日々。
「結婚をして、まったく違う世界に行きたい」
毎日、そんな事を考えていました。
会社では、
年上の同僚から、
プライベートな事をネチネチと
聞かれたりする事に、
少し疲れていました。
そんな、私でしたが、
将来には夢がありました。
「小さくても持ち家に住めて、
生活が安定していて、
親を大事にしてくれる人と
結婚をしたい」
そんな私に、
手配師のおばさんはこういいました。
「アワビの養殖の仕事をしていて、
しっかりした人だよ」
それを聞いた私は、
無邪気に考えていました。
「これで、きっと夢が叶うんだ」
私にとっての白馬の騎士が、
大将だったのです。
そして、私達はホテルのロビーでご対面。
「想像より老けているなあ。
見た目もパッとしないし…」
それが、第一印象でした。
「でも、お付き合いしながら好きになればいい」
そんな風に、自分を励ましたりしていました。
「何とかなりそうかな、どうだろう?」
そう思っていた私の背中を、
両親は「立派な人だね」と後押してくれました。
それから、約3ヶ月でスピード入籍。
一緒に暮らし始めた最初のうちは、
お庭のある大きなお家に住むことが出来、
将来の期待も膨らんでいました。
「これから人生が良くなっていくはず…」
ところが、しばらくすると、
アワビの会社の業績が悪くなってきたことから、
生活の雲行きが怪しくなってきたのです。
収入もガタンと減ったので、
私たちは団地に引越し、
セカセカとした暮らしをすることになりました。
「私は、この人しかいないんだから、
頑張ってついていかなきゃ」
そう、思いながらも、
何だかとても辛くて、
ストレスで体調を崩したりしていていました。
そうこうしているうちに、
アワビの会社が倒産。
私たちは、カニの卸をやるか、
知り合いのつてでラーメン店をやるか、
どちらかを選択することになりました。
その時には、生活のためには私も働かなきゃいけないと、
私も覚悟を決めていました。
結局、カニの仕事は安定していないので、
知り合いがやっているラーメン店に
私たちは修行に入ることにしました。
当別にあったその店の社長さんは、
顔も身体もゴリラみたいに迫力がある、
本当に怖い人でした。
気に入らないことがあると、
しょっちゅう、
中華鍋や、
熱湯のついたさいばしで、
従業員を叩いたり、
お客さんの前で、
口汚く怒鳴ることもありました。
とくに、社長は、
なぜか大将のことが気に入らないらしく、
感情を爆発されることが沢山ありました。
「ブタは邪魔なんだよ!」
私から見た大将は、
社長よりも仕事が出来て、
従業員からも慕われていました。
それが、きっと
気に入らなかったんだと思います。
あと、理由もないのに、
お客さまに土下座させられたこともありました。
あの光景は、
一生忘れられません。
大将の背中を見ながら、
私は、恐くて、
何も出来ませんでした。
悲しくて、悲しくて、
泣きながらまかないのラーメンを
すすったのを覚えています。
あれは、テールスープを試食した日でした。
私は、その社長が憎たらしくて、
嫌でしょうがありませんでした。
それでも、大将は、
どんなに嫌なことがあっても、
自分より弱い人に当り散らすようなことはありませんでした。
私には、とても出来ません。
すごい人なんだなと思いました。
ところが、
そんな事があっても耐えていた私たちに、
ある日、いい報せがありました。
千歳に店を出して、
ゆくゆくは任せてくれる
というのです。
私たちは涙を流して喜びました。
「自分たちの店が持てる」
それからは、365日、
身体がバラバラになるくらい、
毎日、仕事を頑張りました。
そうこうするうちに、
千歳に出したその店は、
本店を上回るほどの繁盛店になりました。
私達は、どんなに身体が疲れても、
自分達の店に夢を膨らませていました。
そんなある日、
とんでもない出来事が起こりました。
社長が、私たちを
突然、店から追い出してしまったのです。
その日、いつも通りに
午前8時に出勤した私たちでしたが、
社長が先に店にいて、
いきなり怒鳴りつけてきたのです。
「遅刻しやがってけしからん!
出て行け!破門だ!」
そういって、
社長が二の腕をまくりあげると、
びっしりと刺青が入っていて、
私たちは言葉を失ってしまいました。
完全ないいがかりでした。
しかし、どうすることもできす、
来た道を2人でトボトボ引き返してきたのです。
突然の事で、
本当にびっくりしましたが、
冷静になってみると、
あれだけ大将にひどい事をした人ですから、
縁が切れてかえってせいせいしました。
「あんな奴の顔を2度と見ないですむわ!」
それなのに、大将は、
あまり怒った様子もなく、
お気楽な様子。
「お世話にも沢山なったじゃないか」
社長の予想では、
千歳の店が本店を上回るほど
繁盛をするなんて、
ぜんぜん考えていなかったようです。
こうして、私達は、またもや
突然、路頭に迷ってしまいました。
その時には、もう、どうやって、
生活していこうか考えるのが精一杯で、
夢どころの騒ぎではありませんでした。
そして、どうするか考えていたのですが、
心の中では大将も、私も、こう考えていました。
「もう、私達には、
ラーメンしかない」
でも、どうしたら自分たちで
お店をオープンできるんだろう…。
そうすると、
ありがたいことに、
お店の常連さんや、
友人、仕入先さんなどの色んな方が
応援して下さることになり、
自分たちの店をオープンできることになったのです。
そして、1995年1月24日、
千歳市自由が丘という場所で
私たちは店を始めさせて頂きました。
店名は、「道裕」(みちひろ)の「道」と、
「紀子」(のりこ)の「のり」を合わせて
「道のり」(みのり)と名づけさせて頂きました。
「みちのり」ではなく「みのり」と読みます。
「まだまだ、美味しいラーメンを
つくれない私たちだけど、
一歩ずつ一歩ずつ進んでいこう」
そんな事を話しながら店名を決めました。
そして、本当に休み無く、
スープの仕込みから営業、
翌日の準備と後片付けで、
朝の5時から夜の12時まで
365日働きました。
お店は、自衛隊さんや、
地域の方々にご愛顧頂き、
おかげさまで、
にぎやかな毎日。
そして、7年後の2002年、
7月22日、自由が丘から、
現在の36号線沿いに移転したときに、
「道のり」を「みのり」と、
変更させていただいたのです。
振り返ってみると、
色んな事がありましたが、
中でも、大将には腰のヘルニアがあって、
ずっと辛かったと思います。
厨房にダンボールを敷いて
ショックを和らげたり、
靴のつま先を切り落とすような工夫をして
頑張っていました。
横で見ていて心配になりましたが、
泣き言は、殆ど聞いた事がありません。
あと、これまで、
大将がしてくれたことで、
一番嬉しかったのは、
私が乳がんになった時に、
一生懸命はげましてくれたことです。
「やばいかな…」
そう、考えつつも実際に乳がんの診断を受けたとき、
私は、本当に怖くて、不安で一杯でした。
当時は、今のように、
再発も無く完治する人は、
まだ、少なかったのです。
病院の廊下に張ってある
誘導テープの上をフラフラと、
真っ直ぐ歩けないくらい意識が
もうろうとしたのを覚えています。
「せっかく私を選んでくれたのに、
全摘になってごめんね」
大将には、そんな手紙を書いたのを
覚えています。
そして、明日、手術というその日の夜。
小さな川に面していた私の病室に
パッと光が入ってきてパパパンと音が鳴りました。
窓に近づいて見ると、
大将が向こう岸で花火を
次から次にあげているのです。
私は、思わず窓を開けました。
「絶対に大丈夫だよ。
心配ないよ。
俺がついているから!」
大将が涙ながらに声を張り上げていました。
あの時には、本当に勇気が出て嬉しかったです。
あと、一つだけある不満については、
どうしても言いたいのですが、
長くなってしまうので、
それは、また、
いつかご紹介したいと思います。
みなさんもご存知のように、
大将は、年だけはとっていても、
子供みたいな人ですので、
ご迷惑をおかけすることもあると思いますが、
どうぞ、ご容赦下さいませ。
あと、何かお気づきになられた時には、
色々とご指導下さいませ。
ご来店下さった時には、
元気なるラーメンを精一杯
お作りさせていただきます。
石崎紀子
愛笑コメント
///////////////
今回、妻の気持ちで
初めて分ったことがたくさんあって、
びっくりしました。
次回は、また、私の物語を中心に、
お届けさせて頂きます。
□□51歳で見つけた人生初めての夢□□□□□□□□□□□□□□□□□
アホのチャンピオンベルト第7ラウンド
みのりの愛笑が歩んだ
「涙のアホベルトへの道のり」
<漁師の弁論大会で優勝すれば、ご両親に認めてもらえるかもしれない>
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(これまでの内容)
貧乏な上に村八分で、
更には、捨て子という幼少時代を過ごした私は、
人生に希望が持てずに、
13歳の頃から死ぬことばかり考えていました。
ところが、ある夜、UFOに出逢ったことで
漁師の才能に目覚め、生活が一変してしまったのです。
私は次第に自信を持つようになり、
町の青年団でも中心的な活動をするようになりました。
そして、19歳の時に、
生まれて初めての彼女が出来たのです。
私は、彼女と結婚して家庭を持つために、
酒びたりで暴力を振るう叔父から
独立を果たし、漁協の後継者育成制度を利用して、
自分の船を購入しました。
漁を始めると1日で1万円くらいの
売上げを立てるようになり、
生活の基盤も、少しずつ整っていきました。
ところが、彼女の両親や親戚一同は、
家柄や学歴など様々なことを理由に、
私たちの結婚には絶対に反対という立場で、
ついには、会うことすら禁止されてしまったのです。
(ここからが今回の内容です)
一体、これから、どうやってご両親を説得しようかと
考えていた1976年、私が20歳の春。
ある日、私は漁協を通じて
「漁師のための弁論大会」
というものが開催されるのを知りました。
それは、漁業青年部の大会で、
各市町村から代表者が集まり、
全道大会が開催されるのです。
「これはご両親にアピールする大チャンスだ」
そう、思った私は、
自分が中学すら卒業していないことも忘れて、
絶対に決勝大会まで出場しようと思いました。
「これからの漁業」というのが大会のテーマです。
私は無事に予選を通過し、
本戦では「獲る漁業から育てる漁業」という
発表をしたのですが、結果、そこで、
まさかの優勝をしてしまいました。
「中学も出ていない、
作文できない自分が優勝できた」
彼女のためにやれたと思えた!
俺が北海道1位になれた!
嬉しさと驚きで一杯でした。
そして、この大会の模様は、
北海道新聞や水産新聞にも掲載され、
私は、ちょっとした地元の有名人になって
しまいました。
彼女も、親戚に「こんな人なんだよ」といってくれて、
親戚の方々の見る目も変わっていきました。
それでも、お母上の気持ちだけは
最後まで、動かす事は出来なかったのです。
当時は、漁師として認めてくれてきていることも
分かっていたので「どうして?」という気持ちが募りました。
今になってみると、
地元の漁師仲間の間で私達家族が村八分に
されていたことから、お母上も、随分、
白い目で見られていたんだなと思います。
考えてみると、気の毒な話です。
港で漁師たちが水揚げをする時に、
地元のご婦人達がグループとして網にかかった魚を外したり、
仕分けたり、みんなで協力し合っていました。
その仲間に、
いつまでも石崎は入れなかったのです。
私は、だからこそ、
彼女を人一倍幸せにしたいと思っていました。
その頃、漁でとってきた魚やカニが
千歳空港では港の10倍の値段で
売れていることを知りました。
そして、漁師から魚屋になることを夢見て、
私は魚売りを始めたのです。
地元の魚屋に持っていくと、
市場のセリ値以下に買い叩かれて苦労もしたのですが、
魚は、すぐに腐ってしまうので売らなければいけません。
私たちは、とった魚を車のトランクに積めて、
一軒、一軒、山や牧場のご家庭に売り歩くことにしました。
これが、本当に良く売れて、
結婚をするためのお金も溜まりました。
彼女は、保母さんの仕事をしながら
手伝ってくれていました。
そして、とうとう、
1978年2月16日、
私たちは許されて結婚する事が出来ました。
翌1979年5月16日には、
念願だった長男が生まれました。
出産はとても難産で、
帝王切開をすることになりました。
「母子ともに危ない」
先生の言葉に、
母子の健康のためなら
自分はどうなってもいい。
「わらをもすがる」というのは
こういう気持ちかと苦しくなりました。
そして、おぎゃあと生まれた時には、
黄疸がひどく、この子大丈夫かなと心配になりました。
それでも、
女房には、
ただ、ただ感謝です。
「よく頑張った、よく頑張った」と声をかけ、
そして、二人で泣きました。
それから、私は、
家族のために馬車馬のように働き、
魚屋も繁盛しました。
最高の時には、
利益だけで1日に200万円、
1週間に1200万円も
稼いだこともありました。
叔父と漁師をしていたときには、
月に3000円、1日100円だった私です。
それが、10年後には、
同じ1日で100万円、200万円を
稼ぎ出すようになれたのです。
能力のない私にそんな事が出来たのは
家族が出来たからに他なりません。
しかし、その後、
いろいろありまして、
有限会社にしていた魚屋は
だまし取られてしまいました。
そして、息子が5歳の時に、
女房、子供と別れて暮らす事になったのです。
「血を分けた子供と2度と会えない」
それが、28歳、家族もお金も、
友人もなく、再び、途方に暮れた私の姿でした。
<つづく>
(次回はこちらの内容をお届けします)
「みのりの始まり物語」
愛笑コメント
///////////////
ここからが、さらに、色々なことのオンパレードです。
アホへの道のりは、まだ、まだ続きます。
アホのチャンピオンベルト第7ラウンド
みのりの愛笑が歩んだ
「涙のアホベルトへの道のり」
<漁師の弁論大会で優勝すれば、ご両親に認めてもらえるかもしれない>
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(これまでの内容)
貧乏な上に村八分で、
更には、捨て子という幼少時代を過ごした私は、
人生に希望が持てずに、
13歳の頃から死ぬことばかり考えていました。
ところが、ある夜、UFOに出逢ったことで
漁師の才能に目覚め、生活が一変してしまったのです。
私は次第に自信を持つようになり、
町の青年団でも中心的な活動をするようになりました。
そして、19歳の時に、
生まれて初めての彼女が出来たのです。
私は、彼女と結婚して家庭を持つために、
酒びたりで暴力を振るう叔父から
独立を果たし、漁協の後継者育成制度を利用して、
自分の船を購入しました。
漁を始めると1日で1万円くらいの
売上げを立てるようになり、
生活の基盤も、少しずつ整っていきました。
ところが、彼女の両親や親戚一同は、
家柄や学歴など様々なことを理由に、
私たちの結婚には絶対に反対という立場で、
ついには、会うことすら禁止されてしまったのです。
(ここからが今回の内容です)
一体、これから、どうやってご両親を説得しようかと
考えていた1976年、私が20歳の春。
ある日、私は漁協を通じて
「漁師のための弁論大会」
というものが開催されるのを知りました。
それは、漁業青年部の大会で、
各市町村から代表者が集まり、
全道大会が開催されるのです。
「これはご両親にアピールする大チャンスだ」
そう、思った私は、
自分が中学すら卒業していないことも忘れて、
絶対に決勝大会まで出場しようと思いました。
「これからの漁業」というのが大会のテーマです。
私は無事に予選を通過し、
本戦では「獲る漁業から育てる漁業」という
発表をしたのですが、結果、そこで、
まさかの優勝をしてしまいました。
「中学も出ていない、
作文できない自分が優勝できた」
彼女のためにやれたと思えた!
俺が北海道1位になれた!
嬉しさと驚きで一杯でした。
そして、この大会の模様は、
北海道新聞や水産新聞にも掲載され、
私は、ちょっとした地元の有名人になって
しまいました。
彼女も、親戚に「こんな人なんだよ」といってくれて、
親戚の方々の見る目も変わっていきました。
それでも、お母上の気持ちだけは
最後まで、動かす事は出来なかったのです。
当時は、漁師として認めてくれてきていることも
分かっていたので「どうして?」という気持ちが募りました。
今になってみると、
地元の漁師仲間の間で私達家族が村八分に
されていたことから、お母上も、随分、
白い目で見られていたんだなと思います。
考えてみると、気の毒な話です。
港で漁師たちが水揚げをする時に、
地元のご婦人達がグループとして網にかかった魚を外したり、
仕分けたり、みんなで協力し合っていました。
その仲間に、
いつまでも石崎は入れなかったのです。
私は、だからこそ、
彼女を人一倍幸せにしたいと思っていました。
その頃、漁でとってきた魚やカニが
千歳空港では港の10倍の値段で
売れていることを知りました。
そして、漁師から魚屋になることを夢見て、
私は魚売りを始めたのです。
地元の魚屋に持っていくと、
市場のセリ値以下に買い叩かれて苦労もしたのですが、
魚は、すぐに腐ってしまうので売らなければいけません。
私たちは、とった魚を車のトランクに積めて、
一軒、一軒、山や牧場のご家庭に売り歩くことにしました。
これが、本当に良く売れて、
結婚をするためのお金も溜まりました。
彼女は、保母さんの仕事をしながら
手伝ってくれていました。
そして、とうとう、
1978年2月16日、
私たちは許されて結婚する事が出来ました。
翌1979年5月16日には、
念願だった長男が生まれました。
出産はとても難産で、
帝王切開をすることになりました。
「母子ともに危ない」
先生の言葉に、
母子の健康のためなら
自分はどうなってもいい。
「わらをもすがる」というのは
こういう気持ちかと苦しくなりました。
そして、おぎゃあと生まれた時には、
黄疸がひどく、この子大丈夫かなと心配になりました。
それでも、
女房には、
ただ、ただ感謝です。
「よく頑張った、よく頑張った」と声をかけ、
そして、二人で泣きました。
それから、私は、
家族のために馬車馬のように働き、
魚屋も繁盛しました。
最高の時には、
利益だけで1日に200万円、
1週間に1200万円も
稼いだこともありました。
叔父と漁師をしていたときには、
月に3000円、1日100円だった私です。
それが、10年後には、
同じ1日で100万円、200万円を
稼ぎ出すようになれたのです。
能力のない私にそんな事が出来たのは
家族が出来たからに他なりません。
しかし、その後、
いろいろありまして、
有限会社にしていた魚屋は
だまし取られてしまいました。
そして、息子が5歳の時に、
女房、子供と別れて暮らす事になったのです。
「血を分けた子供と2度と会えない」
それが、28歳、家族もお金も、
友人もなく、再び、途方に暮れた私の姿でした。
<つづく>
(次回はこちらの内容をお届けします)
「みのりの始まり物語」
愛笑コメント
///////////////
ここからが、さらに、色々なことのオンパレードです。
アホへの道のりは、まだ、まだ続きます。
□□51歳で見つけた人生初めての夢□□□□□□□□□□□□□□□□□
アホのチャンピオンベルト第6ラウンド
みのりの愛笑が歩んだ
「涙のアホベルトへの道のり」
<もう、2度と死のうなんて思わない>
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(前回までのあらすじ)
私が育った家庭は、
毎日の食事すらままならない程に貧しく、
酒乱の父がいたことから、近所でも村八分の状態でした。
もの心がつく頃から私には友達もおらず、
いじめられてばかりの日々を過ごしていましたが、
父だと思っていた祖父の死を期に、
私は赤ん坊の時に母親に棄てられていたことを知りました。
それと同時に、
一家が稼ぎ手を失ってしまったことから、
中学1年生にして勉学を諦め、
漁師をすることになったのです。
船酔いでのた打ち回り、
仕事の出来ない私は、
一緒に漁に出た叔父から殴られて、
毎日半殺しにされていました。
その頃は、完全に生きる意味を見失い、
毎晩、枕の下に隠した果物包丁で、
自分の胸を突き刺すことばかり考えていましたが、
いつも、あとちょっとの所で実行できずにいました。
そんな、夢も希望も失ってしまったある日、
漁に出ていた私の前にUFOが現れたのです。
しばらく目の前を飛んだUFOは、
そのまま姿を消してしまいましたが、
私は、きっと、自分を励ましに来てくれたんだと思い、
「生きていればいいことがあるはず」と、
前向きに人生を生きようと思うようになりました。
それから、なぜか、
私が「ここだ!」と思った場所に網を入れると、
大漁になることが続き、貧乏だった家庭は
一気に裕福になっていきました。
毎回、魚を満載して帰港する叔父に、
港の漁師仲間達が魚が取れる場所を教わろうと
集まるようになりましたが、
叔父は彼らにウソの情報を流しました。
私たちは、益々、嫌われ者になっていきました。
ご飯はお腹一杯食べられるようになりましたが、
わずかなお給料ではボロアパートの家賃にすらなりませんでした。
「一日も早く、この家を出て行きたい」
その頃、私は、19歳になっていました。
(ここからが今回の内容です)
この頃になると、叔父の事はさておき、
私自身への周りの見る目も変わっていたように思います。
当時、私は町の青年団に参加していて、
街を元気付けるサークルの実行委員長をしていました。
実際には出逢いを求める男女の集まりなのですが、
街の成人式も自分達で企画したり、
それなりに積極的な活動をしていました。
会合は町民センターで行っていて、
私はそこで顔を合わせる、ある女性に夢中でした。
彼女は、同じ町民センターを拠点に活動している
ボランティアサークルに参加している、
1歳年上の女性です。
容姿も抜群で、
家柄も良いことから地元では憧れの存在でした。
そんな彼女が、ある日、
私に声をかけてくれたのです。
それが、どんな言葉だったのか、
今では思い出すことが出来ません。
それまでの人生で、女性から話しかけられた経験のない私は、
ただ、ただ本当にびっくりして頭の中も真っ白でした。
帰りがたまたま同じ方向だった私たちは、
それをきっかけに話したり、
一緒に帰ったりするようになったのです。
それから、間もなく、
私は彼女から衝撃の告白をされました。
「あなたが好きです」
彼女の突然の告白に、
私は躊躇することなく
「実は俺も好きだった」と、
勇気を出して伝えました。
めっちゃ感動してしまい、
体中がしびれました。
そして、お付き合いが始まったのです。
彼女が、昔、私が、いじめられていた事を
知っていたのかどうかは分かりませんでした。
私も、その頃には、
自分に学歴がないことや、
村八分だった事について、
気にしてはいませんでした。
自慢話みたいでごめんなさい。
本当に、死ななくて良かったと思います。
中学の時に見たUFOが人生を変えてくれたのです。
彼女と一緒にいるのは殆どが車の中で、
私たちは果てしなく色々なことを話しました。
口では真面目なことを話していた私でしたが、
頭の中はエッチな事ばかり浮かんできて大変でした。
私にとっては人生がひっくり返るような大問題です。
「本当に好きな人とエッチできるんじゃないか?」
最初に会ったときから、
私は彼女との結婚を意識していました。
しかし、叔父さんと一緒に漁をしていては、
結婚が出来ません。
そこで、独立しようと思うようになったのです。
「好きな人が出来て、
お金を貯めて結婚したい」
恋愛感情を持てた人は生まれて初めてで、
私にとっては、
とてつもなく好きな人でした。
早速私は、
漁協の後継者育成制度を利用して、
小さな船と網を買いました。
助成と融資でお金が都合できたのです。
小さい船では岸が見えるくらいまでしか
行けませんでしたが、魚は沢山とれました。
「ただ、ただ彼女と結婚したい」
朝から晩まで働いても幸せの絶頂だった私は、
以前は、30日働いて3000円、
1日あたり100円しか貰えなかったのが、
自分で漁をするようになると
1日1万円も稼げるようになっていました。
そして、月3000円で浜の近くで部屋を借り、
一人暮らしを始めたのです。
雨漏りするようなボロボロの小屋で、
銭湯の裏にくっついている建物でした。
彼女が現れるのを待つ時間は、
時が経つのが長くて、長くて、
すごく、辛く感じたのを覚えています。
そして、
彼女が来る日には、
なぜか、
隅々まで掃除をしたり、
ふとんを替えたり、
カーテンを替えたり、
がらにもなく花を買って、
部屋を飾ったりしたのでした。
そこに、仕事の後、
彼女が遊びに来てくれるのです。
夜の9時から、
船が出る深夜12時までのわずかな時間が、
私にとっては何ものにも替えがたい貴重な瞬間でした。
彼女との結婚に向けて、
ご両親にも賛成してもらえるように
私は思いつく限りの努力をするようになりました。
「漁師の俺と結婚したんだから、
これだけ幸せになれたんだ」
そう、証明できるように頑張ろう。
私自身、いじめや中学中退という経験は辛かったので、
生まれてくるだろう子供には同じ想いを
味合わせたくないと思いました。
しかし、彼女のご両親、ご家族、親戚一同は、
いくら漁師として頑張ってみても、
私との結婚には、完全拒否、絶対反対の立場で、
何をやっても想いは通じませんでした。
そして、次第に、外出すらも
許されなくなってきたのです。
それでも、彼女は、
ご両親の目を盗んでは
逢いに来てくれたのでした。
私は、なぜ、こんなに反対されて、
きつい事を言われるんだろうと思いました。
そして、どんなに苦労しても
絶対に認めてもらおうと思いました。
2人でいる時に、
彼女が両親から反対されて
泣いている姿を見るのは
とても辛かったです。
それでも、涙ながらに
「私はあなたが働いている姿が好きなので、
絶対に、乗り越えていきたい」
そう、彼女に励まされるたびに、
すごい勇気が湧いてきました。
それまで、私のことを「情にもろい泣き虫」だと
思っていたのは知っていましたが、
信じてもらえたことで、
私の中にとてつもない力が湧いてきました。
夫婦になって胸が張れるようにしたいと思いました。
解決策はまったく見当たりませんでしたが、
どんなに苦しくても、今回は死のうとはもう思いませんでした。
<つづく>
(次回はこちらの内容をお届けします)
「漁師の弁論大会で優勝すれば、
ご両親に認めてもらえるかもしれない」
愛笑コメント
=====
信じてもらえることで発揮できる力って、
本当にスゴイと思います。
アホのチャンピオンベルト第6ラウンド
みのりの愛笑が歩んだ
「涙のアホベルトへの道のり」
<もう、2度と死のうなんて思わない>
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(前回までのあらすじ)
私が育った家庭は、
毎日の食事すらままならない程に貧しく、
酒乱の父がいたことから、近所でも村八分の状態でした。
もの心がつく頃から私には友達もおらず、
いじめられてばかりの日々を過ごしていましたが、
父だと思っていた祖父の死を期に、
私は赤ん坊の時に母親に棄てられていたことを知りました。
それと同時に、
一家が稼ぎ手を失ってしまったことから、
中学1年生にして勉学を諦め、
漁師をすることになったのです。
船酔いでのた打ち回り、
仕事の出来ない私は、
一緒に漁に出た叔父から殴られて、
毎日半殺しにされていました。
その頃は、完全に生きる意味を見失い、
毎晩、枕の下に隠した果物包丁で、
自分の胸を突き刺すことばかり考えていましたが、
いつも、あとちょっとの所で実行できずにいました。
そんな、夢も希望も失ってしまったある日、
漁に出ていた私の前にUFOが現れたのです。
しばらく目の前を飛んだUFOは、
そのまま姿を消してしまいましたが、
私は、きっと、自分を励ましに来てくれたんだと思い、
「生きていればいいことがあるはず」と、
前向きに人生を生きようと思うようになりました。
それから、なぜか、
私が「ここだ!」と思った場所に網を入れると、
大漁になることが続き、貧乏だった家庭は
一気に裕福になっていきました。
毎回、魚を満載して帰港する叔父に、
港の漁師仲間達が魚が取れる場所を教わろうと
集まるようになりましたが、
叔父は彼らにウソの情報を流しました。
私たちは、益々、嫌われ者になっていきました。
ご飯はお腹一杯食べられるようになりましたが、
わずかなお給料ではボロアパートの家賃にすらなりませんでした。
「一日も早く、この家を出て行きたい」
その頃、私は、19歳になっていました。
(ここからが今回の内容です)
この頃になると、叔父の事はさておき、
私自身への周りの見る目も変わっていたように思います。
当時、私は町の青年団に参加していて、
街を元気付けるサークルの実行委員長をしていました。
実際には出逢いを求める男女の集まりなのですが、
街の成人式も自分達で企画したり、
それなりに積極的な活動をしていました。
会合は町民センターで行っていて、
私はそこで顔を合わせる、ある女性に夢中でした。
彼女は、同じ町民センターを拠点に活動している
ボランティアサークルに参加している、
1歳年上の女性です。
容姿も抜群で、
家柄も良いことから地元では憧れの存在でした。
そんな彼女が、ある日、
私に声をかけてくれたのです。
それが、どんな言葉だったのか、
今では思い出すことが出来ません。
それまでの人生で、女性から話しかけられた経験のない私は、
ただ、ただ本当にびっくりして頭の中も真っ白でした。
帰りがたまたま同じ方向だった私たちは、
それをきっかけに話したり、
一緒に帰ったりするようになったのです。
それから、間もなく、
私は彼女から衝撃の告白をされました。
「あなたが好きです」
彼女の突然の告白に、
私は躊躇することなく
「実は俺も好きだった」と、
勇気を出して伝えました。
めっちゃ感動してしまい、
体中がしびれました。
そして、お付き合いが始まったのです。
彼女が、昔、私が、いじめられていた事を
知っていたのかどうかは分かりませんでした。
私も、その頃には、
自分に学歴がないことや、
村八分だった事について、
気にしてはいませんでした。
自慢話みたいでごめんなさい。
本当に、死ななくて良かったと思います。
中学の時に見たUFOが人生を変えてくれたのです。
彼女と一緒にいるのは殆どが車の中で、
私たちは果てしなく色々なことを話しました。
口では真面目なことを話していた私でしたが、
頭の中はエッチな事ばかり浮かんできて大変でした。
私にとっては人生がひっくり返るような大問題です。
「本当に好きな人とエッチできるんじゃないか?」
最初に会ったときから、
私は彼女との結婚を意識していました。
しかし、叔父さんと一緒に漁をしていては、
結婚が出来ません。
そこで、独立しようと思うようになったのです。
「好きな人が出来て、
お金を貯めて結婚したい」
恋愛感情を持てた人は生まれて初めてで、
私にとっては、
とてつもなく好きな人でした。
早速私は、
漁協の後継者育成制度を利用して、
小さな船と網を買いました。
助成と融資でお金が都合できたのです。
小さい船では岸が見えるくらいまでしか
行けませんでしたが、魚は沢山とれました。
「ただ、ただ彼女と結婚したい」
朝から晩まで働いても幸せの絶頂だった私は、
以前は、30日働いて3000円、
1日あたり100円しか貰えなかったのが、
自分で漁をするようになると
1日1万円も稼げるようになっていました。
そして、月3000円で浜の近くで部屋を借り、
一人暮らしを始めたのです。
雨漏りするようなボロボロの小屋で、
銭湯の裏にくっついている建物でした。
彼女が現れるのを待つ時間は、
時が経つのが長くて、長くて、
すごく、辛く感じたのを覚えています。
そして、
彼女が来る日には、
なぜか、
隅々まで掃除をしたり、
ふとんを替えたり、
カーテンを替えたり、
がらにもなく花を買って、
部屋を飾ったりしたのでした。
そこに、仕事の後、
彼女が遊びに来てくれるのです。
夜の9時から、
船が出る深夜12時までのわずかな時間が、
私にとっては何ものにも替えがたい貴重な瞬間でした。
彼女との結婚に向けて、
ご両親にも賛成してもらえるように
私は思いつく限りの努力をするようになりました。
「漁師の俺と結婚したんだから、
これだけ幸せになれたんだ」
そう、証明できるように頑張ろう。
私自身、いじめや中学中退という経験は辛かったので、
生まれてくるだろう子供には同じ想いを
味合わせたくないと思いました。
しかし、彼女のご両親、ご家族、親戚一同は、
いくら漁師として頑張ってみても、
私との結婚には、完全拒否、絶対反対の立場で、
何をやっても想いは通じませんでした。
そして、次第に、外出すらも
許されなくなってきたのです。
それでも、彼女は、
ご両親の目を盗んでは
逢いに来てくれたのでした。
私は、なぜ、こんなに反対されて、
きつい事を言われるんだろうと思いました。
そして、どんなに苦労しても
絶対に認めてもらおうと思いました。
2人でいる時に、
彼女が両親から反対されて
泣いている姿を見るのは
とても辛かったです。
それでも、涙ながらに
「私はあなたが働いている姿が好きなので、
絶対に、乗り越えていきたい」
そう、彼女に励まされるたびに、
すごい勇気が湧いてきました。
それまで、私のことを「情にもろい泣き虫」だと
思っていたのは知っていましたが、
信じてもらえたことで、
私の中にとてつもない力が湧いてきました。
夫婦になって胸が張れるようにしたいと思いました。
解決策はまったく見当たりませんでしたが、
どんなに苦しくても、今回は死のうとはもう思いませんでした。
<つづく>
(次回はこちらの内容をお届けします)
「漁師の弁論大会で優勝すれば、
ご両親に認めてもらえるかもしれない」
愛笑コメント
=====
信じてもらえることで発揮できる力って、
本当にスゴイと思います。
今回は、
イスラエルでの体験を
どうしても、お伝えしたくて、
特別号を企画しました。
なぜ、
私のような千歳で小さなラーメン屋を
やっている親父が店を放ったらかして
イスラエルなのか?
不思議に思われた方も、
おられるかもしれませんね。
実は、私も、自分が行くなんて、
考えたこともありませんでした。
イスラエルに
親しみを持っている方にはごめんなさい。
その理由は、きっと、
若い頃にテレビ等で知った、
中東戦争の記憶が色濃く残っていたからかもしれません。
アホと戦争は相性が悪いのです。
そんな私でしたが、
三重県津市の赤塚建設株式会社の社長、
赤塚高仁さんにお誘い頂き、
今回、出かけることにしたのです。
赤塚さんといえば、
山元加津子先生の映画に
出演されておられるのでご存知の方も
いるかもしれません。
他にも、
沢山の頑張っている方々の
支援をしておられます。
その赤塚さんから、
「一緒に行こう」と誘われれば、
断る理由はありません。
そんな赤塚さんですが、
若い時には色々あって、
自殺未遂をしたことがあったそうです。
その時の気持ちは、
私にも分かるような気がします。
意識不明の状態から、
3日目に奇跡的に意識を回復し、
出逢ったのが生涯の師と仰ぐ糸川英夫博士でした。
博士は「日本の宇宙開発の父」と呼ばれる大科学者です。
その博士が、
赤塚さんにイエスキリストの生き方を紹介し、
それがきっかけで、彼は自分の人生をどう生きたいのかを、
知ることができたそうです。
二人の交友は、1999年に、
博士がこんな言葉を残して亡くなるまで続きました。
「日本とイスラエルの絆を深めなければならない」
こうして、赤塚さんは、
イエスの足跡を辿るイスラエルツアーを、
個人的に主催するようになったのです。
そんな事を考えているうちに、
五日市剛さんの伝説の小冊子
「ツキを呼ぶ魔法の言葉」に出てきた、
イスラエルのおばあさんの話も思い出しました。
私は、あのおばあちゃんが大好きなのです。
「これは行くしかないな」
さて、
気分はどんどん前向きになってきた私ですが、
妻に相談するときには申し訳ない気持ちで一杯でした。
「毎度、アホなことばかりやりたがって、
ちっとも幸せに出来ずにゴメン!」
今回も妻は笑顔で私を送り出してくれました。
(イスラエルにて)
聖書の物語をたどる旅は、
イエスが歩いた道のりでした。
ゴルゴダの丘では、
イエスは処刑されるために、
1キロもの道のりを、
自分をはり付けにするための十字架を担いで、
歩いていったそうです。
70キロもの重みに耐えられず、
何度も倒れながら、
その度に立ち上がっていったとの事でした。
私たちが現地に行ったときには、
燃えるような日差しと灼熱の中で、
イエスは何のためにこの道を歩いたのだろうか?
そんなことを考えたりもしました。
今から、約2000年前の出来事です。
残念だったのは、
観光客相手に実物大のレプリカを用意して、
イエスのように十字架を背負いながら歩く
体験を売っている人がいたことです。
見ていて、
とても悲しい気持ちがしました。
4日目に訪れたマサダの丘では涙が止まりませんでした。
有名な死海のほとりにある、
地上400メートルの岩山の頂上に砦が築かれていて、
内部には宮殿やサウナ・大浴場もあり、
さながら都市のようになっています。
紀元66年、
ユダヤ人は支配者であるローマ帝国の侵攻に対して、
独立戦争を始めたものの、
圧倒的な兵力に押されて、
すぐに首都であるエルサレムを奪われ、
どんどんと追い詰められていきました。
そして、
最後に残った967人が、
この砦に立て篭もって
3年間の戦いを繰り広げたのです。
この戦いに敗れれば、
ユダヤの国が地上から消えてしまいます。
一方のローマ軍は15000人の兵士達がこの砦を囲み、
ユダヤ人の捕虜を人間の縦にして、
攻め寄せてきました。
立て篭もったユダヤ人たちは、
数年分の食料や水や武器を準備して戦いましたが、
ローマ軍の盾になっているのが
ユダヤ人の捕虜だということが分かると、
石を落としたり、
矢を放つことが出来なくなってしまいました。
「このまま敵の盾になっている味方を殺して戦っても、
いずれは、攻め滅ぼされてしまう。
しかし、敗れて奴隷になることよりも自ら死を選ぼう」
司令官エルアザー・ベン・ヤイールの指示で、
全員の自決が決定しました。
しかし、ユダヤ教の掟で自殺は禁じられています。
そこで、
まず、家長の男達が自分の家族全員を殺しました。
そして、生き残った男は10人ずつのグループに分かれて、
くじを引き、負けた一人が残りの9人を殺したのです。
そして、最後に残った一人だけが自殺をしました。
私たちは、まさに、
司令官が全員自決の指示を出した、
同じ部屋で、ガイドの榊原さんと、
赤塚さんからこのお話を聞きました。
私と同じような、
子供も女房もいる男達は、
どんな気持ちで家族を殺め、
そして、最後の殺人役となるくじを引いたのでしょうか?
自分なら家族が殺せるだろうか?
どんな理由があってもできません。
味方も殺せませんし、
家族も殺せません。
当時の人々の苦難を想い、
ただ、ただ滝のように涙が流れました。
ローマ軍が砦に突入したとき、
そこには無数の死体がそのまま放置されていたそうです。
その後、
ローマ帝国に対して、
各地で生き残ったユダヤ人による、
一時的な抵抗が一度だけ行われましたが、
イスラエルという国は地上から消え去り、
ユダヤ人はその後約1900年もの間、
世界中を放浪することになりました。
再びイスラエルが復活するのは、
1948年5月14日の
ベングリオンによる独立宣言の時です。
今でも、
イスラエル人の中には、
この砦で成人式を行う人が、
かなりいるそうです。
ちなみに、
男の子の成人式は13歳で行われます。
夕暮れからはじまる儀式の中で述べられる誓いの言葉には、
ズシンとお腹に響くものがありました。
「マサダを2度と繰り返さない」
紀元73年のローマ軍の突入時、
2人の女性と5人の子供たちが
貯水槽に隠れていたところを発見され、
この物語が後世に伝えられました。
なぜ、この7人だけが生き残ったのかは、
未だに謎とされています。
私はマサダからの帰り道、
自分の無力さや存在の小ささに震えていました。
世界中には、
私のように平和な国の平和な時代に生きている人がいる一方で、
こんなに大変な環境の中で生きていた人もいることを、
すんなりと、消化することが出来ずにいました。
マサダの訪問を終えてホテルに着くと、
チェックインが行列になっていて、
ロビーから人が溢れて大変な混雑になっていました。
あちこちで、
色んな国の子供たちが、
退屈したり、お腹を空かせて、
泣いたり、暴れたり…。
「これは自分の出番だ!」
私は、なぜかそう思って、
日本から持ってきたピエロの衣装で、
子供たちにマジックとペンシルバルーンを
披露することにしました。
言葉が分からないので
身振り手振りでおどけてみせながら、
満面の笑顔で頑張ります。
すると肌の色も言葉も違う子供たちが
後から、後からどんどんやってきて、
黒山の人だかりになってしまいました。
てんやわんやの忙しさだったのですが、
バルーンを手にした子供たちは、
みんなが笑顔になってくれるのです。
私は、またもや、
涙が止まらなくなりました。
そして、
ふと、日本から一緒に来た仲間達を見ると、
彼らも、なぜか涙を流しているのです。
さらには、さっきまでイラついていた
世界各国の親御さんたちも泣いていました。
つい3・4時間ほど前までは、
マサダの砦で960人が亡くなった話を聞いて、
ただ、ただ涙を流すばかりの私でした。
しかし、今度は違います。
「自分がアホをやって
子供たちを喜ばせることで、
言葉が分からなくても、
どんなに違う人生を生きてきても、
今日はみんなが一つになれた。
私は、きっと色んな人が心を一つにする
お手伝いをするために生まれてきたんだ。
それに、気づくために、
イスラエルに来たんだ。
一日も早く、世界中の全ての人に
平和が来て欲しい
私はアホで世界平和に貢献していきたい」
そんな事を思いながら、
残りの旅を楽しみ、
日本に帰ってきました。
赤塚さん、
ガイドの榊原さん、
一緒に旅したみんな、
本当に、ありがとうございました。
大将はこれから、
更なるアホを目指します!
<次回は「もう、二度と死のうなんて思わない」です>
□□51歳で見つけた人生初めての夢□□□□アホのチャンピオンベルト第4ラウンド
みのりの大将が歩んだ
「涙のアホベルトへの道のり」
祖母が作ってくれたカレーの美味しさに涙が出た
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
<前回までのあらすじ>
私は新冠の漁師の家で祖父と祖母に育てられましたが、
友達もおらず、いじめられっこで、
「ミッチーガソリン」といわれるほど、
泣いてばかりの幼少期を過ごしました。
祖父が酒飲みで仕事をしなかったことから、
食べることすらままならない程家は貧しく、
酔っ払っては暴れてばかりいたので、
近所の人達からも嫌われていました。
「自分が赤ん坊の時に母に捨てられた(;д;)」
という事実を知ったのは、
中学1年生の時に祖父が死んだことがきっかけです。
稼ぎ頭を失ったことから、
私もすぐに叔父と漁に出ることになりましたが、
船酔いに苦しむ上、毎日、叔父からは
ボコボコに殴られていました。
捨て子という事実に打ちのめされていた私は、
夜ごと果物包丁を胸に突き立てて自殺を試みるなど、
生きていても仕方が無いという気持ちで
日々を過ごしていました。
そんなある日のこと、
ふとしたことから赤と緑の光に輝く
UFOに遭遇したのです。
何のメッセージを伝えにきたのだろうと考えるうちに
「死ぬのはいつでもできる。生きていれば良いことがあるかも」と、
私は自分の人生に初めて希望を持つ事ができたのでした。
<ここからが今回の内容です>
UFOを見た瞬間のことは、
私の脳裏に焼きついていて、
しばらくは一瞬も頭から離れませんでした。
そして、次の日も、次の日も
「今日もUFOに会えるかな?」と、
期待して漁に出るようになったのです。
「あれは何だったんだろう?
また、何かのメッセージを届けに来てくれるのかな?」
と思うと、辛かった毎日が、
なぜだか楽しくなってきました。
船酔いもせず、体も軽くなり、
「学校も行けなくてもいいんだ」
と思うようになりました。
更に不思議なことに、
漁に出ていると
「これから(どんな種類の)魚がここを通る。
今だ、網を入れろ!」という、海の神様からの
メッセージのようなものを肌で感じるようになったのです。
そこで、船長だった叔父の指示ではなく、
自分のタイミングで網を海に入れるようにしました。
叔父から「トモオヨーイ」(投網用意)と言われても、
「はい」と返事だけして、じっと息を殺して
タイミングを待つようになりました。
海の底がクッキリと見えるような気がするので、
「ここだ!」と思った所に網を入れて、
3日・4日後の夜に引き上げに行くのです。
暗闇の海の上で、
海面にライトをあてながら
機械のドラムで網を巻き上げていくと、
魚のウロコに光が反射して、
海面が真っ白に浮かび上がってきます。
「キター!v(≧∇≦)v」
それを見るたび、
宝くじ当たったみたいな気がしました。
山盛りの魚が網に入っているのです。
実際、以前の4・5倍の魚が、
毎回、面白いように獲れました。
その頃から、
一気に叔父は裕福になり、
生活も変わりました。
一方の私は、
ずっと月給3000円でしたが、
ご飯がお腹一杯食べられることが
嬉しくてしょうがなかったです。
カニが沢山獲れた時、
祖母がカニの身をたっぷり入れた
カレーを作ってくれたのですが、
美味しくて涙が出たのを覚えています。
叔父の船ばかりが魚が獲れるようになると、
地元の漁協組合の雰囲気がガラリと変わりました。
皆が、叔父の行動に注目し、
同じ場所に網を入れようとしたのです。
ところが、叔父は、
自分さえ良ければいいという人でしたので、
漁協仲間に対して「あそこは獲れる」と、
嘘の情報を流すようになりました。
無線で嘘の情報を仲間にいっているのを聞くたび、
悲しくて、私は涙が出てきました。ヽ(TдT)
叔父は一気に信頼を失い、
村八分の状態になりました。
以前とは違った意味で肩身が狭く、
「みんなを騙して自分たちだけが得をしている」と思うと、
ご飯が喉を通らなくなりました。
あと、叔父は、裕福になっても
酒を飲んでは奥さんに絡んで喧嘩をしていました。
ある時は、赤々とコークスが燃えている煙突ストーブに
奥さんを投げ飛ばして大やけどを負わせたり、
散々な暴れようでした。
そんな毎日を過ごしながら、
私は19歳になろうとしていました。
身体は大きくなっていましたが、
いつも怖くて小さくなっていました。
一度だけ、叔父に
「小遣いをあげてくれ」といったことがありましたが、
「飯を食わしているだろう!」と、
殴られて終わりでした。
メソメソはしませんでしたが、
どうせ勝てないと思っていたので、
ただ、身体を固くして叔父の気が済むのを待っていました。
自殺願望は無くなりましたが、
「はやく、ここを出て行きたい」と、
ひたすら願う毎日。
そんなある日、
生まれて初めて、
村八分の私にも、
やさしく声をかけてくれる女性が、
目の前に現れたのですv(≧∇≦)v 。
<つづく>
=大将コメント=
嘘は良くないですよね。
当時の叔父の姿を思い出すと、
いまだに胸が苦しくなります。
でも、嫌な事を乗り越えれば、
次は必ずいい事があるので、
人生は本当に不思議です。
<次回 アホの特別編「イスラエルに行って更にアホな生き方を貫くことを決意しました」>




