かわら版
□□51歳で見つけた人生初めての夢□□□□□□□□□□□□□□□□□
アホのチャンピオンベルト第7ラウンド
みのりの愛笑が歩んだ
「涙のアホベルトへの道のり」
<漁師の弁論大会で優勝すれば、ご両親に認めてもらえるかもしれない>
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(これまでの内容)
貧乏な上に村八分で、
更には、捨て子という幼少時代を過ごした私は、
人生に希望が持てずに、
13歳の頃から死ぬことばかり考えていました。
ところが、ある夜、UFOに出逢ったことで
漁師の才能に目覚め、生活が一変してしまったのです。
私は次第に自信を持つようになり、
町の青年団でも中心的な活動をするようになりました。
そして、19歳の時に、
生まれて初めての彼女が出来たのです。
私は、彼女と結婚して家庭を持つために、
酒びたりで暴力を振るう叔父から
独立を果たし、漁協の後継者育成制度を利用して、
自分の船を購入しました。
漁を始めると1日で1万円くらいの
売上げを立てるようになり、
生活の基盤も、少しずつ整っていきました。
ところが、彼女の両親や親戚一同は、
家柄や学歴など様々なことを理由に、
私たちの結婚には絶対に反対という立場で、
ついには、会うことすら禁止されてしまったのです。
(ここからが今回の内容です)
一体、これから、どうやってご両親を説得しようかと
考えていた1976年、私が20歳の春。
ある日、私は漁協を通じて
「漁師のための弁論大会」
というものが開催されるのを知りました。
それは、漁業青年部の大会で、
各市町村から代表者が集まり、
全道大会が開催されるのです。
「これはご両親にアピールする大チャンスだ」
そう、思った私は、
自分が中学すら卒業していないことも忘れて、
絶対に決勝大会まで出場しようと思いました。
「これからの漁業」というのが大会のテーマです。
私は無事に予選を通過し、
本戦では「獲る漁業から育てる漁業」という
発表をしたのですが、結果、そこで、
まさかの優勝をしてしまいました。
「中学も出ていない、
作文できない自分が優勝できた」
彼女のためにやれたと思えた!
俺が北海道1位になれた!
嬉しさと驚きで一杯でした。
そして、この大会の模様は、
北海道新聞や水産新聞にも掲載され、
私は、ちょっとした地元の有名人になって
しまいました。
彼女も、親戚に「こんな人なんだよ」といってくれて、
親戚の方々の見る目も変わっていきました。
それでも、お母上の気持ちだけは
最後まで、動かす事は出来なかったのです。
当時は、漁師として認めてくれてきていることも
分かっていたので「どうして?」という気持ちが募りました。
今になってみると、
地元の漁師仲間の間で私達家族が村八分に
されていたことから、お母上も、随分、
白い目で見られていたんだなと思います。
考えてみると、気の毒な話です。
港で漁師たちが水揚げをする時に、
地元のご婦人達がグループとして網にかかった魚を外したり、
仕分けたり、みんなで協力し合っていました。
その仲間に、
いつまでも石崎は入れなかったのです。
私は、だからこそ、
彼女を人一倍幸せにしたいと思っていました。
その頃、漁でとってきた魚やカニが
千歳空港では港の10倍の値段で
売れていることを知りました。
そして、漁師から魚屋になることを夢見て、
私は魚売りを始めたのです。
地元の魚屋に持っていくと、
市場のセリ値以下に買い叩かれて苦労もしたのですが、
魚は、すぐに腐ってしまうので売らなければいけません。
私たちは、とった魚を車のトランクに積めて、
一軒、一軒、山や牧場のご家庭に売り歩くことにしました。
これが、本当に良く売れて、
結婚をするためのお金も溜まりました。
彼女は、保母さんの仕事をしながら
手伝ってくれていました。
そして、とうとう、
1978年2月16日、
私たちは許されて結婚する事が出来ました。
翌1979年5月16日には、
念願だった長男が生まれました。
出産はとても難産で、
帝王切開をすることになりました。
「母子ともに危ない」
先生の言葉に、
母子の健康のためなら
自分はどうなってもいい。
「わらをもすがる」というのは
こういう気持ちかと苦しくなりました。
そして、おぎゃあと生まれた時には、
黄疸がひどく、この子大丈夫かなと心配になりました。
それでも、
女房には、
ただ、ただ感謝です。
「よく頑張った、よく頑張った」と声をかけ、
そして、二人で泣きました。
それから、私は、
家族のために馬車馬のように働き、
魚屋も繁盛しました。
最高の時には、
利益だけで1日に200万円、
1週間に1200万円も
稼いだこともありました。
叔父と漁師をしていたときには、
月に3000円、1日100円だった私です。
それが、10年後には、
同じ1日で100万円、200万円を
稼ぎ出すようになれたのです。
能力のない私にそんな事が出来たのは
家族が出来たからに他なりません。
しかし、その後、
いろいろありまして、
有限会社にしていた魚屋は
だまし取られてしまいました。
そして、息子が5歳の時に、
女房、子供と別れて暮らす事になったのです。
「血を分けた子供と2度と会えない」
それが、28歳、家族もお金も、
友人もなく、再び、途方に暮れた私の姿でした。
<つづく>
(次回はこちらの内容をお届けします)
「みのりの始まり物語」
愛笑コメント
///////////////
ここからが、さらに、色々なことのオンパレードです。
アホへの道のりは、まだ、まだ続きます。
アホのチャンピオンベルト第7ラウンド
みのりの愛笑が歩んだ
「涙のアホベルトへの道のり」
<漁師の弁論大会で優勝すれば、ご両親に認めてもらえるかもしれない>
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(これまでの内容)
貧乏な上に村八分で、
更には、捨て子という幼少時代を過ごした私は、
人生に希望が持てずに、
13歳の頃から死ぬことばかり考えていました。
ところが、ある夜、UFOに出逢ったことで
漁師の才能に目覚め、生活が一変してしまったのです。
私は次第に自信を持つようになり、
町の青年団でも中心的な活動をするようになりました。
そして、19歳の時に、
生まれて初めての彼女が出来たのです。
私は、彼女と結婚して家庭を持つために、
酒びたりで暴力を振るう叔父から
独立を果たし、漁協の後継者育成制度を利用して、
自分の船を購入しました。
漁を始めると1日で1万円くらいの
売上げを立てるようになり、
生活の基盤も、少しずつ整っていきました。
ところが、彼女の両親や親戚一同は、
家柄や学歴など様々なことを理由に、
私たちの結婚には絶対に反対という立場で、
ついには、会うことすら禁止されてしまったのです。
(ここからが今回の内容です)
一体、これから、どうやってご両親を説得しようかと
考えていた1976年、私が20歳の春。
ある日、私は漁協を通じて
「漁師のための弁論大会」
というものが開催されるのを知りました。
それは、漁業青年部の大会で、
各市町村から代表者が集まり、
全道大会が開催されるのです。
「これはご両親にアピールする大チャンスだ」
そう、思った私は、
自分が中学すら卒業していないことも忘れて、
絶対に決勝大会まで出場しようと思いました。
「これからの漁業」というのが大会のテーマです。
私は無事に予選を通過し、
本戦では「獲る漁業から育てる漁業」という
発表をしたのですが、結果、そこで、
まさかの優勝をしてしまいました。
「中学も出ていない、
作文できない自分が優勝できた」
彼女のためにやれたと思えた!
俺が北海道1位になれた!
嬉しさと驚きで一杯でした。
そして、この大会の模様は、
北海道新聞や水産新聞にも掲載され、
私は、ちょっとした地元の有名人になって
しまいました。
彼女も、親戚に「こんな人なんだよ」といってくれて、
親戚の方々の見る目も変わっていきました。
それでも、お母上の気持ちだけは
最後まで、動かす事は出来なかったのです。
当時は、漁師として認めてくれてきていることも
分かっていたので「どうして?」という気持ちが募りました。
今になってみると、
地元の漁師仲間の間で私達家族が村八分に
されていたことから、お母上も、随分、
白い目で見られていたんだなと思います。
考えてみると、気の毒な話です。
港で漁師たちが水揚げをする時に、
地元のご婦人達がグループとして網にかかった魚を外したり、
仕分けたり、みんなで協力し合っていました。
その仲間に、
いつまでも石崎は入れなかったのです。
私は、だからこそ、
彼女を人一倍幸せにしたいと思っていました。
その頃、漁でとってきた魚やカニが
千歳空港では港の10倍の値段で
売れていることを知りました。
そして、漁師から魚屋になることを夢見て、
私は魚売りを始めたのです。
地元の魚屋に持っていくと、
市場のセリ値以下に買い叩かれて苦労もしたのですが、
魚は、すぐに腐ってしまうので売らなければいけません。
私たちは、とった魚を車のトランクに積めて、
一軒、一軒、山や牧場のご家庭に売り歩くことにしました。
これが、本当に良く売れて、
結婚をするためのお金も溜まりました。
彼女は、保母さんの仕事をしながら
手伝ってくれていました。
そして、とうとう、
1978年2月16日、
私たちは許されて結婚する事が出来ました。
翌1979年5月16日には、
念願だった長男が生まれました。
出産はとても難産で、
帝王切開をすることになりました。
「母子ともに危ない」
先生の言葉に、
母子の健康のためなら
自分はどうなってもいい。
「わらをもすがる」というのは
こういう気持ちかと苦しくなりました。
そして、おぎゃあと生まれた時には、
黄疸がひどく、この子大丈夫かなと心配になりました。
それでも、
女房には、
ただ、ただ感謝です。
「よく頑張った、よく頑張った」と声をかけ、
そして、二人で泣きました。
それから、私は、
家族のために馬車馬のように働き、
魚屋も繁盛しました。
最高の時には、
利益だけで1日に200万円、
1週間に1200万円も
稼いだこともありました。
叔父と漁師をしていたときには、
月に3000円、1日100円だった私です。
それが、10年後には、
同じ1日で100万円、200万円を
稼ぎ出すようになれたのです。
能力のない私にそんな事が出来たのは
家族が出来たからに他なりません。
しかし、その後、
いろいろありまして、
有限会社にしていた魚屋は
だまし取られてしまいました。
そして、息子が5歳の時に、
女房、子供と別れて暮らす事になったのです。
「血を分けた子供と2度と会えない」
それが、28歳、家族もお金も、
友人もなく、再び、途方に暮れた私の姿でした。
<つづく>
(次回はこちらの内容をお届けします)
「みのりの始まり物語」
愛笑コメント
///////////////
ここからが、さらに、色々なことのオンパレードです。
アホへの道のりは、まだ、まだ続きます。




